元ピンク・レディーである未唯mieさんが11月28日、近影をアップしたのですが、まるで60代を超えているとは思えないスタイル、アイドルとしてのオーラーが全開で再び注目されているようです。
そこで、今回は個人的にピンク・レディーの活動期間・解散されてからの経緯をまとめてみました!
ピンクレディーでの活動名は「ミー」さん、「ケイ」さんであり、解散されてからは「未唯mie」さん、「増田惠子」さんと名乗られています。
ミーさんは左側。右側がケイさん。
ピンク・レディーの活動期間
ピンク・レディーはミーさんとケイさんで結成された1970年代後半から、独特なシングルタイトル、印象に残る衣装で爆発的なブームを起こされました。すべては紹介しきれないので、個人的に抜粋していきます。
デビューシングル「ペッパー警部」
・デビューシングル「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚を記録。
第二弾シングル「S.O.S」と第三弾「カルメン’77」はどちらもオリコン一位
「S.O.S」(1976年11月)の売上枚数は約65万枚(オリコン)、120万枚(ビクター)。
「カルメン’77」(1977年3月)の売上枚数は約66万枚(オリコン)、110万枚(ビクター)。
第四弾「渚のシンドバット」
こちらの「渚のシンドバット」(1977年6月)はミリオンセラー(100万枚以上)を記録。
第五弾「ウォンテッド(指名手配)」
「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)こちらは12週連続で一位になったインパクトを残しました。
第六弾「UFO」
「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーを記録。地球の美女が宇宙人に恋をする歌詞が当時としては、画期的なことで多くの人に印象を残しました。
第七弾「サウスポー」
「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラーに。
この曲では“左利きの女性投手が王貞治さんと一騎討ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治さんのホームラン世界記録ブーム”の背景から作られた曲と言われています。
第八弾「モンスター」
モンスター(1978年6月25日)は出だしから「ワハハハ…」という不気味なモンスターの声(都倉俊一さんの声に音声加工)に、二人が「キャー!」と叫ぶイントロが話題になりました。
再結成が実に5度行われる形に
活動期間はやや特殊?とも言え、1976年から1981年となってはいるものの、その後、何度も再結成されてきた経緯があります。
というのも、ピンクレディーの人気を支えていたのは主に子供たちであり、1987年のオリコン調査によると三歳から十二歳までが42.5%を占めていたとされています。
紅白歌合戦を敢えて自体したことがバッシングへと発展
1978年大晦日の『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を敢えて辞退、日本テレビ系のチャリティー番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演することを選択されます。
しかしこれがマスメディアのバッシングを受け、事務所のトラブル、メンバーの恋愛事情なども重なり人気が低迷してしまいます。
海外に進出にも挑戦
活動していく中で、海外での活動にも挑戦されており、日本から離れたわけですが残念ながら海外で契約更新とはならず、再び日本で活動されます。
再結成を幾度となくされた形跡からも苦労されたことでしょう。
- ・1984年 – 1度目の再結成。
- ・1989年 – 2度目の再結成。
- ・1996年 – 3度目の再結成。
- ・2003年 – 4度目の再結成。
- ・2010年 – 5度目の再結成
解散されてからの活動
1980年9月1日に解散を発表され、1981年に後楽園球場で解散コンサートが行われます。
お互いにそれぞれの道を進むことを選ばれたものの、このあとから再結成を何度も繰り返されファンの人からすれば、「なぜ何度も再結成されるの?」
ということになり、2010年に「解散やめ!」を宣言されます。
ピンクレディーとして活動されながらもソロと並行して継続することになっているようです。
まとめ!
60代を超えてもアイドルオーラー全開で注目となった未唯mieさん。
ピンクレディーとして活動され、様々な苦労をされながらも若々しく見える姿はやはり、選ばれた人ならではと個人的には感じました。
それでは、このあたりで。